【書評】私とは何か ー「個人」から「分人」へ〜喉に引っかかった小骨が取れたスッキリ感を得た〜

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先日、「私とは何か――「個人」から「分人」へ」という本を読みました。

著者は小説家の平野啓一郎さん。「マチネの終わりに」でも有名ですね。

以前にノリハナさんからオススメと聞いて購入してはいたものの積読状態で、さんからも「すごくいい本だった」と聞いてやっとこさ読みました。

本を読み終えて感じたのが、会いたい人に会いに行くツアーをやって、FACESのワークをやった後の、今このタイミングで読めてよかったなということ。

まだ咀嚼中な部分もあってうまく説明できないのですが、喉に引っかかっていた魚の小骨がポロポロっと取れてスッキリした感じなのです。というわけで、今回はそんな話をつらつらと。書評というより感想文です。

「分人」とは何か?

この本について語るにあたって、これだけは説明しておかなければなりません。そう、「分人」とは何かということを。

平野啓一郎さんの言う「分人」の発想を理解するには、まず「個人」という単語について考える必要があります。

日本語の「個人」という言葉は「individual」という英語の翻訳。平野さんの説明をお借りすると、「individualは、in+dividualという構成で、divide(分ける)という動詞に由来するdividualに、否定の接頭辞inがついた単語」です。

その「individual」という言葉から否定の接頭辞「in」を取ってしまった言葉、「dividual」がこそが「分人」なのです。つまり、個人よりも一回り小さな単位を導入して、人間を「分けられる」存在と見なしてしまおうと言うのです。

もう少し具体的な説明部分を引用してみましょう。

一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。

なんとなく、分人のイメージがつかめたでしょうか?

詳しく知りたい方は、ぜひ「私とは何か――「個人」から「分人」へ」を読んでみてください。

「私とは何か――「個人」から「分人」へ」を読んで

「私とは何か――「個人」から「分人」へ」は以下の5章構成です。

第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて

今回は章ごとに響いた言葉を引用し、それについて感じたこと、考えたことをまとめていくスタイルにしたいと思います。

第1章 「本当の自分」はどこにあるか

私たちは、他人から本質を規定されて、自分を矮小化されることが不安なのである。

これ、少し前までモヤモヤしていたことの正体かもなって思いました。

わたしが何にモヤモヤしていたのかというと、昨年仕事を辞めてからお会いする人に「消しゴムはんこの人」って認識されてるのがありがたい反面「何かが違うな」と感じていたんですよね。

消しゴムはんこばっかり作ってるわけでもないし、でもじゃあ他に何してるのって言われてもうまく説明できなかったりして…。いや、説明は出来るんですけど、自分の説明には何かが足りない感覚があった。「それだけ?」みたいな。

「消しゴムはんこを作っているわたし」はわたしの一部でしかなくて、それ以外のわたしもいるってことを知ってほしかったのかもなと今は思います。

第2章 分人とは何か

コミュニケーションが苦手だと思っている人は、その原因を、相手を魅了する話術の不足に求めがちだが、むしろ、相互の分人化の失敗というところから考えてみてはどうか?

第3章で「ネガティブは分人の半分は相手のせい、ポジティブな分人の半分は相手のお陰」みたいな話があるのですが、コミュニケーションも同じなんだなと。

沈黙が多い会話も半分は相手のせい、盛り上がる会話も半分は相手のお陰と考えると、コミュニケーションに苦手意識があるわたしとしては気持ちが軽くなります。

コミュニケーションは相手ありきなんだから、上手くいった時はもちろん上手くいかなかったときも「自分のせい」と思うのは少し傲慢だったのかもしれません。

第3章 自分と他者を見つめ直す

分人という単位で考えるなら、あなたが語りかけることが出来るのは、相手の「あなた向けの分人」だけである。

これ、逆に考えると「相手の『わたし向け』の分人に語りかけることが出来るのはわたしだけ」、と言えるのではないでしょうか。もしそうだとしたら、これこそ個人が情報発信する意義じゃないかなと思うんです。

例えばわたしはこのブログで様々な情報を発信していますが、世の中には同じような情報を発信していて、しかもわたしよりもっと詳しい人がたくさんいます。

そんな風に考えると「この情報をわたしが発信する意味ってあるのかしら」と疑問に思ったりするのですが、人間を分人として捉えるとたとえ同じ情報であったとしても「誰が誰に対して発信するのか」によって相手への響き方は異なると言えます。

書評記事なんかでも、「あの人が面白いって言うなら読んでみようかな」と思うこと、ないですか?ちなみにわたしは竜さんがオススメしてる本は全部面白そうに見えちゃうんですけど(笑)

だからもしこの記事を読んでいるあなたが何かしらの形で情報発信をしているのであれば、「誰かがもう発信しているから」という理由で自ら発信することを諦めないでほしいし、わたしは「誰か」じゃなくて「あなた」に発信してほしいのです。

第4章 愛すること・死ぬこと

愛する人が存在しなくなったことは、もちろん、悲しい。同時に、もう愛する人との分人を生きられないことが悲しい。

この一文を読んで真っ先につるはさんのことを思い出しました。

第4章の前半で「愛とは、『その人といるときの自分の分人が好き』という状態のことである。」という話があったのですが、まさにわたしはつるはさんといるときの自分の分人がとても好きだったんだなぁと思います。

一緒にいるといつもとにかく楽しくて、自然と笑顔になれて、勇気が持てた。そんな分人を生きさせてくれたつるはさんには、やっぱり「ありがとう」と伝えたいです。

そして願わくはわたし自身も、わたしと出会ってくれた大切な人たちが、わたし向けの分人を好きになれるような、そんな人間になれますように。

第5章 分断を超えて

対立する、あるいは無関係な二つのコミュニティを、より大きな一なる価値観で統合しようとするのではなく、双方に同時参加する複数の人々の小さな結びつきによって融合を図る。

コミュニティに関する話は可能性と希望が感じられてとてもワクワクしました。

好奇心旺盛な性格ゆえ複数のコミュニティに顔を出させてもらっていますが、それが各コミュニティの橋渡しになっているのだとすれば、それってとっても素敵だなと思うのです。

たとえどんなに小さな結びつきであろうと、そのコミュニティで出会った誰かの「生き方の選択肢」が一つでも増えたなら、これほど嬉しいことはありません。

おわりに

会いたい人に会いに行くツアー(三日目)の記事で「いつも思っていることなのですが、今のわたしがあるのは今まで出会ってきた全ての方々のおかげです。出会いに大きい小さいはなくて、誰かひとりでも出会っていなかったとしたら今のわたしはないと思っています。」と書きましたが、「今まで出会ってきた人との間で形成してきた分人の集合体が今のわたし」と考えると、より納得感があります。

わたしは今の自分が結構好きなのですが、わたしが自分を好きになれたのはそんな風に思える分人を生きさせてくれるまわりの人のお陰も半分あるんだなぁとしみじみ思うのでした。

 

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